特定非営利活動法人 板倉まちづくり振興会

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板倉の歴史History of Itakura

板倉の歴史

新潟県上越市板倉区の歴史について教えてという質問ですね。板倉区は、上越市の南東部に位置する地域自治区で、2005年に旧板倉町が上越市に合併したときに設けられました。板倉区の歴史は古く、中世には越後国守護上杉氏の重臣大熊氏が居城とした箕冠城が築かれました。箕冠城は、鳥坂城とは山ひとつ隔てた独立峰につくられた山城で、東西約400m、南北約300mの城域をもち、大熊川と小熊川が外堀の役目を果たしていました。大熊氏は戦国時代に上杉謙信に仕えましたが、1556年に謙信が出家引退を表明したことを受けて武田信玄に通じ、箕冠城を捨てて信濃に移りました。その後、箕冠城は廃城になったか、上杉家の番城として存続したかは不明です。現在、城跡には曲輪や土塁などの遺構が残っています。

恵信尼近世には板倉区は米増村や稲増村などの農村でしたが、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、板倉区出身の人物が歴史に名を残しました。その一人が恵信尼です。恵信尼は、1182年に板倉区米増の豪族三善為教の娘として生まれました。9歳年上の親鸞聖人と結婚し、男女6人の子どもをもうけました。親鸞が越後に配流されたときも同行し、7年間板倉で暮らしました。その後関東や京都で暮らしましたが、70歳を過ぎて再び越後に帰り、板倉で子や孫と過ごしました。87歳で亡くなったといわれています。恵信尼は親鸞の妻として教えを貫き、多くの子を育てた「暖かい優しさと心の強さ」を持った人物でした。

中村十作中村十作は1867年に稲増村(上越市板倉区稲増)の名主であった中村平左衛門の五男として生まれた。早稲田大学を中退し海軍に入隊しましたが、真珠養殖を志して沖縄県宮古島へ渡りました。そこで島民が苦しむ人頭税という悪税に対して廃税運動を起こしました。多くの迫害を乗り越えて人頭税を廃止させることに成功しました。その後、十作は宮古島を中心に本業の真珠養殖事業に打ち込むが、1940年(昭和15)に戦争の激化で事業が禁止となる中、1943年(昭和18)に京都の自宅で76歳の生涯を閉じました。中村十作は宮古島で大和神として祀られています。また、地元板倉と宮古島の人々の交流も盛んに行われている。

増村朴斎増村朴斎(1868~1942年)は14歳で上京して国学者南摩羽峯(なんまうほう)の教えを受け、郷土の子弟を育てることを夢見て、帰郷後に私財を投じて1896(明治29)年に「有恒学舎」を設立。(新潟県立有恒高校の前身)孔子の『論語』から「有恒」という言葉を選んだ校名の額は、勝海舟が揮毫して井上圓了から届けられました。「恒に変わらない正しい信念を持ちつづける人間」を育成したいという朴斎の願いが込められた学舎には、會津八一(新潟市出身)など全国から実力派の教師が招かれました。

もっと詳しく知りたい場合は、板倉区にある恵信尼寿塔や中村十作記念館などを訪れるといいでしょう。

板倉の沿革

1889年(明治22年)4月1日 町村制施行に伴い中頸城郡針村、下米沢村、南中島村、上中島新田、小石原村、下田屋村、横町村、関根村が合併し、板倉村(いたくらむら)が発足。
1901年(明治34年)11月1日 中頸城郡豊原村、根越村、箕冠村と合併し、板倉村を新設。
1956年(昭和31年)4月1日 中頸城郡寺野村を編入。
1958年(昭和33年)8月1日 町制施行により板倉町となる。
2005年(平成17年)1月1日 上越市に編入され、町域は地域自治区「板倉区」となる。